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Posted by Miki OKUBO on  | 

自由が過ぎますよ。

    densen.jpg

    自由が過ぎますよ、というお願いを時々受ける。
    自由が過ぎますよ、というお願いも時々しているだろう。
    基本的にはできることは対応するけれども、
    全力を尽くしヘトヘトになりながら対応するのは違うと思っている。
    もちろん一生懸命なのだ。
    もちろん切羽詰まっているのだ。
    そうはいっても
    お願いするときに乱暴なことや暴力的な態度をとってはならない。
    お願いするのはお願いされるよりもよゆうが必要である。
    ほんとうは。
    たいていはそうでないので、上手くいかない。
    自由が過ぎますよ、と思っても、
    暴力的な議論や余裕のないプリプリした相手とやりとりするのが
    これまたとてもたいへんであるために、
    ほとんどの場合、がまんしてやってあげてしまう。
    怒るエネルギーや諭すエネルギーがないためだ。
    そういうとき、怠惰はなにより冷たいのではないか、と思うのだ。
    一生懸命で切羽詰まってたら
    何を言うてもいいということはありませんよ。


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    Category : journal
    Posted by Miki OKUBO on  | 0 comments  0 trackback

    何年もぶりの唐ゼミ


      唐ゼミ_背景

      まだ日本に住んでいたときだから6、7年くらい前だと思うけれども、京都でテントで観たぶりの、ものすっごく久しぶりの唐ゼミ☆を横浜で観た。東北公演の最後の2日間、9月4日と5日。東北の公演も素敵だったんだろうなあ。遠征公演も観たかった。
      2日とも観るの?ってたずねる人もいるが、舞台はできるなら東北のだって全部観たかったし、練習も関心がある。という態度は、自分が音楽をやるので、同じ演目の本番は何度あってもその都度ちやう本番だというのが当たり前というのが感覚的にあるためだと思う。

      スペクタクルは生がいい。

      私はCDを殆ど聞かない。DVDも観ないしYoutubeもおとなしく見られない。
      演劇は、アクターの身体が間近にあって、肉声が聴こえて表情が見えて、
      ひょいとジャンプするときのまわりの空気のうごくのとか、
      走り出したアクターが遠くに行ってしまったときにもといた場所にのこるものとか、
      歌うときの息づかいが聴こえ、あるくとき衣服の動くのが感じられ、
      飛び乗ったゆきさきで足下がすっと安定するすばらしさとか、
      演劇を観劇するのはとてもリッチな経験であると思う。

      20年来私はミュージカルが好きであるが、深い理由はたぶんない。
      歌い踊り喋る様子を感じられるのがとても好きなのだし、
      普段音楽を演奏するのにステージに登る私にとって、
      歌い踊り喋ることができるのはなんというかとてもすてきだと思った。

      数年ぶりに観た唐ゼミ☆公演は終わった後もまだ観ていたくて、
      あれから十日以上経った今日も、また観たくなる。

      唐ゼミ 横浜 トラック



      Category : journal
      Posted by Miki OKUBO on  | 0 comments  0 trackback

      木の幹の肌に


        arbre sacre aomori

        青森に赴いたとき、神社で素敵な木を見ました。
        以前ある写真家の方が、私の撮る木の写真は特徴あるとおっしゃり、
        その理由のひとつには私がものすごく木が好きだからだと思います。
        木を撮影するとき、ひざまずく。
        跪かずとも木はすばらしく、我々よりもまっすぐに伸びているのだが、
        それでも、
        いつもは目の高さほどにある木の幹のようすがとても魅力的なので、
        跪いて、幹を見上げる。

        木は我々のちっぽけな人生を、はかないのう、と情けをかけてくれるほどに
        長くゆっくりと生きるけれども、
        時々は死ぬ。いや、いつかは死ぬので、時々は木の死に出会わざるを得ない。
        氏神様の木が昔は豊かな葉をざわざわ言わせて、
        夏には蝉の鳴き尽くすところとなり、
        毎日お供えされるお水やお米などを受け取り、
        そんな様子がもう見られないというとき、悲しかった。
        20年30年を生き続けて、彼らが大きすぎるとか信号を邪魔するとかいう
        むちゃくちゃな理由から根っこから小木に取り替えられる
        そんな事件に出会うと街路樹なんてものを作らなければよいのにと思う。

        木の幹の肌に触ると、安心する。

        Category : photo
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